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中国民族ートンシャン族

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人口は約37万3872人。 
 トンシャン族は主に甘粛省臨夏回族自治州に住んでおり、少数は甘粛省蘭州市、定西地区、寧夏回族自治区、新彊ウイグル自治区に分散して居住している。 

 トンシャンの言葉を使用し、アルタイ語系、モンゴル語派に属する。鎖南、汪家集、四甲集の3つの方言に分かれる。大多数のトンシャン族の青年は中国語に精通している。 この民族は文字を持たない。  

 トンシャン族の人びとの多くはイスラム教を信奉している。

 トンシャン族の人びとは主に甘粛省臨夏回族自治州の東郷地区に住んでおり、地区の名を民族名として、トンシャン族と呼ばれている。トンシャン族はモンゴル族をルーツとし、13世紀からモンゴルの軍隊はこの一帯に駐屯して、屯田を行ったことがある。13世紀以降、トンシャン族の人たちはイスラム教を信奉し始めた。14世紀後半に東郷地区に住む各民族が融合して単一の民族になった。以前は「東郷回回」、「東郷蒙古」、「東郷土人」などと呼ばれ、新中国成立後、トンシャン族と呼ばれるようになった。トンシャン族自治県は乾燥した山岳地帯で、境内には連峰がつらなり、大小さまざまの渓谷があちこちにあり、海抜が高く、交通が不便である。半世紀にわたる刻苦奮闘を経て、すでに乾燥した東郷の古い様相を変え、活気あふれる新しい山村となっている。トンシャン族の人びとの生活の習わしと宗教信仰は基本的に回族と同じであるが、使われている言語は逆にモンゴル族のそれと似ている。主に農業生産に従事し、農作物はジャガイモを主とし、良質で、でんぷん含有量が高い。また、よく知られたモモ・アンズを栽培し、モモとも異なりアンズとも違うもので、大きくて、色がきれいで、より香りがする。

中国民族ードアン族

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人口は約1万5462人。 
 ドアン族は雲南省徳宏ダイ(幾)族ジンプォ族自治州および保山、臨滄、思茅地区に分散して居住している。そのうち尊西県三台山と鎮康県軍弄などはドアン族が集中的に居住している区域である。  

 ドアン族の言葉を使用し、南アジア語系、ワー・ドアン語派に属する。納盈、布雷、若買の三つの方言に分かれている。ドアン族の人びとのほとんどはダイ族の言葉、中国語あるいはジンプォ族の言葉に精通している。ドアン族には自民族の文字がなく、多くの人びとは中国語あるいはダイ族の言葉を使うことができる。 

 ドアン族の人びとは小乗仏教と原始宗教を信奉している。

 ドアン族は中国南西部の長い歴史をもつ少数民族の1つであり、古代の濮人をルーツとし、哀牢と密接な関係がある。紀元前2世紀頃に、怒江両岸一帯に居住し、かなり早くから保山、徳宏一帯の開発にたずさわった民族である。史書に記載されている茫蛮部落はドアン族の祖先であり、隋・唐の時代に「茫蛮」、「橡子蛮」、「望苴子蛮」と呼ばれ、前後して漢、晋王朝および南召、大理国に従い、元代以降ダイ族土司所属の民になったこともある。ドアン族の圧倒的多数はジンプォ、漢、リースー、ダイ族などの民族とともに生活し、主に農業生産に従事している。昔から、お茶を飲むことはドアン族の好みであり、そのためお茶の栽培に長じ、どの家にも茶の木がある。以前居住地区でその他の民族の差別を受け、見下されていたが、解放後こうした状況は改められ、その他の民族と同じような平等の地位を保っている。解放後パラウン族と総称された。この民族の要求の下で、1985年9月、国務院の認可を経てドアン族と改称された。

中国民族―イー族

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人口は約657万2170人。
 雲南省、四川省、貴州省、広西チワン族自治区の4つの省・自治区に分布する。  

 イー族の言葉は、漢・チベット語系のチベット・ミャンマー語族イー語分支に属する。方言が6種類ある。漢民族とよく接している人たちは漢語が分かる。

 昔、イー族の間では多神崇拝がはやっていたが、清朝初期に道教が盛んになった。19世紀の末、カトリック、キリスト教が入ってきたが、信仰するものは少なかった。

 イー族は、中国においてはわりに人口が多く、居住地域が広く、悠久な歴史を持つ少数民族である。大昔から、イー族の祖先はすでに中国南西地区で生活し、子孫を増やしてきた。古くから陝西、甘粛、青海に居住していたいくつかの羌(きょう)族の分派が南下して、長い歴史の流れの中で南西地区の原住民部落の人たちとだんだんと融合し、イー族が形成されるに至った。その足跡は今日の雲南、四川、貴州の3省の広い範囲に及んでいた。各地のイー族の人々は皆自分たちは仲牟由の子孫だと称し、その6人の息子によって「六祖」部落が誕生したという。イー族の歴史における重要な特徴の一つは、長期にわたって奴隷制度を維持してきたことである。20世紀に入っても一部地域にはまだ奴隷制度が残っていたが、新中国の成立後、やっと民主改革と社会主義的改造が行われた。イー族の人びとは地域によって多くの自称があり、例えば、「諾蘇」、「納蘇」、「羅武」、「羅羅」、「米撒溌」、「撒尼」、「阿細」、「阿西」などがそれである。大多数のイー族の人たちの共通の願いに従い、「イー」が統一した民族の呼称とされるようになった。

中国民族ーダフール族

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人口は約12万1500人。
 ダフール族は主に内蒙古自治区モリダワ・ダフール族自治旗と近くの旗県、黒竜江省チチハル市郊外地区と近くの県に集中しており、少数の人たちが新疆ウイグル自治区ターチョン県に居住している。

 ダフール族の人びとはダフール語を使用し、ダフール語はアルタイ語系、蒙古語派に属し、ブトハ(布特哈)とチチハルの2つの方言がある。ダフール族の言葉は語彙が豊かで、漁業・牧畜・狩猟、農耕を表すものが多く、その中には漢語、満州族語、オウンク語から吸収した語彙もある。

 ダフール族には自民族の文字がなく、主に漢語を使用し、少数の人たちは満州族語、蒙古語、カザフ語に通じている。

 ダフール族はシャーマニズムを信仰し、シャーマニズムは自然崇拝、トーテム崇拝、祖先崇拝を含めた原始宗教であり、少数の人たちはラマ教を信仰している。

 ダフール族は中国の北部地区の悠久な歴史と農耕文化を持つ民族である。ダフールは「耕すもの」の意味で、ダフール族の人たちは自分のことをこう呼んでおり、元代の末明代の初めに現れた呼称である。清代の康煕初年頃に、「打虎児」の訳名が現れ、後に「達胡爾」、「達虎里」、「達呼爾」と訳されるようになった。新中国成立後、この民族の人たちの願いによって、統一してダフールと定められた。研究によると、ダフール族は遼国スキタイ族の子孫だということである。清代において、ダフール族は八旗制度(旧時、満州の戸籍制)に編入され、辺境の要衝を守るため徴用され、新疆へ出征したことさえある。そのため東北地区のほか新疆のターチョンにもまだ数千人のダフール族の人がいる。中国の歴史の中で、ダフール族の人たちは他の民族の人々とともに中国の北部辺境地帯の開発に努め、祖国の領土を守り、帝制ロシアの侵入に抵抗するうえで不朽の業績がある。ダフール族の人たちはホッケーが好きで、モリダワダオール族自治旗は「ホッケーの里」とたたえられている。

中国民族ー朝鮮族

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人口は192万597人。
 朝鮮族は主に吉林省に分布し、その次は黒竜江省、遼寧省で、内蒙古自治区に分散して居住している人たちもいる。吉林省延辺朝鮮族自治州は最大の集中的居住地区である。

 大多数の朝鮮族の人たちは朝鮮語と朝鮮の文字を使用し、朝鮮語はアルタイ語系(まだ定説はない)に属し、6つの方言がある。

 朝鮮文字は朝鮮の李朝世宗の主宰の下で、1444年に創出された表音文字である。

 朝鮮族の人びとの間では宗教を信仰する人は少なく、ごく少数の人たちが仏教、キリスト教あるいはカトリックを信仰している。

 朝鮮族は中国の少数民族の中でも教育レベルが比較的高く、経済の発展が比較的速く、人びとの物質的生活も比較的よい民族である。中国の朝鮮族の人びとは、主に19世紀中葉に朝鮮半島から続々と移住してきたのである。1910年に、日本帝国主義が朝鮮を併呑した後、帝国主義の残酷な抑圧と搾取に堪えられなくなった朝鮮の人たちの多くが中国の東北地区へ移住し、1918年までに36万余人に達した。この人たちは東北地区に定住し、次第に中国の少数民族の一つになった。朝鮮族の人々は寒い北方での水稲の栽培に長じ、産出される米は純白で、栄養が豊富である。延辺朝鮮族自治州は 「中国北部の水稲の里」とたたえられている。長白山森林地帯の特産物である朝鮮にんじん、テンの毛皮、シカの角は 「東北の三宝」とたたえられている。老人を敬い、幼きを大事にすることは朝鮮族の人びとの美徳である。

満州族

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人口は約982万1180人。 

 満州族は全国各地に分布し、その中でも遼寧省が最も多い。  

 満州語を使用し、この言語はアルタイ語系、満州・ツングース語派、満州語分支に属する。南、北2種類の方言がある。漢民族とともに生活し、密接に触れ合っているため、今の満州族は中国語を使うようになり、ただごく少数の辺鄙な満州族が集まって居住している村では、少数の年寄りが満州語を使っている。16世紀末、モンゴル語を基礎として満州語をつくった。現在、満州族はみんな漢字を使っている。

の人たちはかつて多くの神を祭るシャーマニズムを信奉していた。今ではシャーマニズム信仰はもう残っていない。

 満州族は長い歴史をもつ民族で、その祖先は2000前の粛慎人までさかのぼることができ、その子孫たちは「ユウ婁」、「勿吉」などと呼ばれていた。満州族の人びとはずっと長白山以北の黒竜江の中・下流、ウスリー川流域の広大な地域で生活していた。「黒水」は満州族の直系の祖先で、その後女真へと発展をとげた。12世紀に、金王朝を創建した。1583年、ヌルハチが女真族の各派を統一し、八旗制度を創設し、満州語を作り、1635年に、民族の呼称を「満州」とした。八旗制度は政治、軍事、生産という三つの面の職能を持ち、満州族社会の根本的な制度となった。1636年、皇太極が帝となり、国号を清と改称した。1644年、清の軍隊が山海関の内側に入り、清の王朝は中国の統一中央集権の最後の封建王朝になった。1911年の辛亥革命以後、満州族と称されている。満州族は中国の統一、国土の開拓、経済・文化の発展に大きく寄与した。

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中国民族ープーラン(布朗)族

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人口は約8万2280人。
 主に雲南省シーサンパンナ・タイ族自治州のもう海、景洪、臨滄地区の双江、永徳、雲県、耿馬、思茅地区の瀾滄、墨江に分布している。

 プーラン族の人びとはプーランの言語を使用し、この言語は南アジア語系、バングラデシュ・カンポジア語派、プーラン語分支に属し、プーラン、アルワ族の方言がある。一部のプーラン族の人びとはタイ族の言語、ワ族の言葉あるいは漢語を話すことができる。

 プーラン族には自民族の文字がなく、一部のプーラン族の人びとは漢語、ダイ族語が話せる。

 以前、大多数のプーラン族の人たちは小乗仏教を信仰していた。

 プーラン族は長い歴史をもつ民族であり、中国古代の濮、蒲、朴の子孫だといわれている。唐代においては「朴子蛮」、元、明、清代においては「蒲蛮」と称された。一部の人たちは自分たちのことを「プーラン」と呼び、一部の人たちは自分たちのことを「阿瓦」、「伊瓦」、「翁拱」と呼び、漢族とタイ族の人々はプーラン族の人たちを「濮満」、「蒲満」と呼んだ。新中国成立後、この民族の願いによって、プーラン族と称されるようになった。新中国成立以前にプーラン山で生活していたプーラン族の人びとはある程度の原始共同体の残存を保っていた。平覇地区で生活していたプーラン族の人たちは経済、文化の発展レベルの高い漢族、ダイ族の影響を受けたため、封建的な地主経済の発展段階に入った。プーラン族の人びとが生活している地区は気候が温暖で、物産に恵まれている。プーラン族の人たちは主に農業に従事し、茶の栽培が得意で、著名なプーアル茶を栽培している。プーラン山のプーラン族の人たちは母子連名制を実行し、子供は生後3日間に名前をつけ、母の名前が子供の名前の後につながるようになっている。




中国民族ーパオアン(保安)族

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人口は約1万2210人。

 主に甘粛省積石山のパオアン族・トンシャン族・サラ族自治県に分布し、少数は甘粛省臨夏回族自治州と青海省循化県に分布している。

 集中して居住している地区のパオアン族の人たちはパオアン族の言語を使用しており、この言語はアルタイ語系、蒙古語派に属する。大多数のパオアン族の人たちは漢語に精通している。

 パオアン族の人は漢語をコミュニケーションの手段としている。

 パオアン族の人たちはイスラム教を信仰している。

 パオアン族は人口の比較的少ない少数民族である。パオアンは地名からきたものであり、明代の万暦年間に、青海省同仁地区にパオアン営が置かれ、パオアン城が築かれた。以前、パオアン族の人たちはイスラム教を信仰し、風俗習慣が現地の回族に似ていたため、「保安回」と呼ばれていた。1950年、この民族の願いに基づいて、パオアン族と名づけられた。民族内部の伝説、言語の特徴、蒙古族に似たいくつかの生活の習慣により、パオアン族は元代、明代の頃から、青海省の同仁地区に居住するイスラム教を信仰する一部の蒙古族、および回族、漢民族、チベット族、トウ族と長期にわたって付き合ってできた民族である。封建的な農奴主の抑圧を受けたため、パオアン族の人たちは現在のパオアン族が唯一集中的に居住している地区――甘粛省積石山パオアン族、トンシャン族、サラ族自治県大河家郷の三つの村に移住することを余儀なくされた。パオアン族の人々は主に農業に従事し、少数の人たちが牧畜業と手工業に従事している。

中国民族ーペー(白)族

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人口は約159万4827人。
 主に雲南省大理ぺー族自治州に居住し、その他は雲南省各地と貴州省の畢節地区、四川省の涼山イ族自治州、湖南省の桑植県に分布している。

 ぺー族はぺー族の言語を使用し、この言語は漢・チベット語系、チベット・ミャンマー語派、イ族語分支に属し、南部、中部、北部の3つの地区の方言がある。大多数のぺー族の人たちは自民族の言語を使用し、漢語にも精通している。

 ぺー族の人たちは唐代の頃から漢字を基礎とする四角形のぺー族の文字を使いはじめ、それによってぺー族の言葉を記録していた。漢民族とぺー族との往来により、ぺー族の人々は長期にわたって漢民族の進んだ文化を学び、その結果、ぺー族の言語の中に数多くの漢語の語彙が吸収され、漢語はずっと前からぺー族の人たちの間で通行する文字となっていた。

 ぺー族は村社の神に相当する本主を崇拝し、仏教を信仰している。

 ぺー族は長い歴史をもつ、文化が発達した民族である。ぺー族の先祖はずっと前からアル海湖地区で生活していた。考古学的発掘が行われた蒼山・アル海湖遺跡、海門口遺跡によって、新石器時代以前からアル海湖地区で生活していたことが明らかになっている。ぴかぴかに磨かれた石器を使い、簡単な農業、牧畜業、漁業、狩猟にたずさわり、穴居生活をおくっていた。2000余年前から金属の道具を使い始め、農業、牧畜業を発展させた。西暦2世紀に、漢の武帝が蒼山・アル海湖地区に郡県を置いた。8世紀から13世紀頃まで、この一帯には前後してイ族、ぺー族の先住民を主体とする奴隷政権南詔国とぺー族段氏を主体とする封建領主制政権大理国が現れた。90%以上のぺー族の人たちは農業に従事し、農業の発展レベルはかなり高いものであった。ぺー族の人たちは自分たちのことを「白子」、「白カ」、「白尼」と呼び、その意味はぺー族の人たち、ということである。1956年にぺー族の人たちの願いによって、呼称は正式にぺー族と定められた。



中国民族ーアチャン(阿昌)族

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人口は約2万7700人。

 主に雲南省徳宏のダイ族・ジンプォ族自治州の隴川県、梁河県に分布し、少数は盈江県、ロ西県、瑞麗県と保山地区の竜陵県、騰沖県に分布している。

 アチャン族はアチャン族の言語を使用し、アチャン語は漢・チベット語系、チベット・ミャンマー語派、ミャンマー語分支に属し、梁河、隴川、ロ西など3つの地区の方言がある。居住地区の違いによって、「ちん撒」、「漢撒」と呼ばれたこともある。長期にわたって漢民族、ダイ族とともに暮らしていたため、アチャン族の人たちはほとんど漢語とダイ族語に通じている。 アチャン族には文字がなく、漢字とダイ族の文字を使用する習慣がある。アチャン族の人々は、普遍的に小乗仏教を信仰している。

 漢語の史書の中で、アチャンは、「峨昌」、「莪昌」、「俄昌」と呼ばれたことがある。その先住民は早い時期から雲南省北西部の金沙江、瀾滄江、怒江流域一帯で生活していた。西暦13世紀に、何度もの移住を通じて、次第に現在住んでいる地域に定住するようになった。アチャン族の人々は防衛のため辺境地帯に駐屯していた兵士たちから水田を耕作し、鉄器を作る技術を学び、農業と手工業との分業を推し進め、商品経済が初歩的な発展をとげた。唐代と宋代の頃に、アチャン族居住地区は南詔と大理の管轄下に置かれた。明代と清代の頃には、アチャン族は族長制度を実行するようになった。新中国建国以前、アチャン族地区は封建的な領主経済のもとに置かれ、地主経済も一定の発展をとげた。その頃の領主の多くはダイ族の族長で、地主はほとんどが漢民族であった。




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